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先日のイベント
「西原理恵子の人生画力対 」で当たった
試写会。原作未読。イベントでへんてこな前情報だけ摂取している状態。監督は電通の社員で、無名監督だから取材も来ずに暇にまかせていけちゃんのオブジェ作っているとか……。あからさまなネタバレ宣伝に監督も原作者もあきれているとか。
楽しみにしている人は宣伝を見ないように警告! といっても、これは無駄な抵抗なのかも。そのネタバレはチラシ画像を参照してもらうとして、更に注目は“<絶対泣ける本 第一位>完全映画化”という
自分の一番嫌いな宣伝文句。こういう色眼鏡で売ると、本当に売れるの?
物語は港町を舞台に少年ヨシオだけが見える心の友達いけちゃんとの生活を描く。オバQのような丸っこい体に漆黒の目玉がぽっかりとついたいけちゃん。基本黄色いけれど状況や心情によってさまざまな色に変化し、大きさも不定形。少年には“最初から、当たり前のようにいる”存在に疑問を持たれないオバケ。物語の出だしも出会いから描くのではなく、そんな当たり前の日常からスタートしていく。
子供にしか見えない想像上の友達と言えば、“子供にしか見えない妖精”や、その変化球で少年と異性物の友情を繰り返しモチーフにする藤子漫画、そして真っ向からイマジナリー・フレンド(想像上の友達)を描くカートゥーン「フォスターズ・ホーム」が思い浮かぶ。その西原版が“いけちゃん”。描き方は良くも悪くも古典的で、オーソドックス。少年がしょっている苦難が原作者の個性といえそう。
この手のモチーフなら、個人的な大好物。さぞかしおいしく食べられそうな映画と思っていたのですが、ここはちょっと予想が違っていた。
空手の達人である牛乳屋が宙を舞いディフォルメされたアクションを見るに“子供の目にはこう映った”という表現なのかと思ってワクワクしていると、そうでもなさそうな描写がどんどん出てくる。
夢の中にも入り込めるいけちゃんの特殊能力を描いた後、空を飛び異空間を見せたあと、翌朝、はだしで家に帰る描写にあぜん。ふとんで目覚めるシーンがくるとばかり思ってました。「いけちゃんはヨシオの人生に干渉できない」と言わせておきながら、ずいぶん脳天気な切り替えで、心の狭い自分はいちいち引っかかってしまいました。
殴り合いのイジメが延々と続き、テーマとして分かるのだけど中盤は特に閉塞感でやりきれなくてきつかった。それが少年の視点として共感しやりきれないなら映画の描き方として正当なのだけど、物語全体のトーンが大人の視点からなのがやりきれない。“大人になればわかるよ”、“早く大人にならなきゃね”的なメッセージは言っている側からすればまっとうなのだけど、少年の日々の真っ只中で自覚できることはまずもってない。少年の日の終わりを目前に控え、時にいけちゃんが見えなくなる描写でも、それは伝わる。でも、ヨシオ少年の主観から物語を肩っているかは疑問が残る。
映画自体が“いけちゃん”と“ぼく”のどちらの視点に重きを置いてるかという意味において、自分は完全に“いけちゃん”側だと感じた。大人の世界からやってきた主観が少年の成長を眺めるという構成で間違いは無いと思う。でも、全体の流れからすると少年に起こる事件が時制で展開するので、とても冷めた大人のまなざしで見下ろした事件を追う気分。演出の意図なのか、子供の目の高さになっていない画面作りから来るのか。この目線はこのテーマを描くのに適切だったのだろうか。
大人にとっては些細なり、致し方ないと諦められることでも子供にとっては重大なのが子供なりの主観。その側に共感させることは、かつて少年だった男性監督ならば出来たのではないだろうか。結局のところ原作の力に負けているように感じた。
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