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「泣ける映画」と言う表現が嫌いだ。
いい意味で使っていれば、
なお始末が悪い。
マイ・フェイバリット・ムービー『ニュー・シネマ・パラダイス』はその代表格のように世間では”評価”され続けている。キャッチフレーズとしてシンプルに短く魅力を伝えたいというだけならばまだ気持ちは分かる。
「感動した」と言うよりは収まりも良く、コピー的にいい。でも「泣ける」と言う表現の向こう側にある本当の意味はこれだけは伝わらない。
「『ニュー・シネマ・パラダイス』が泣ける映画」と簡単に言えるのは、泣くと言うリアクションだけで充分満足できる観客ということなのだろうか。自分と求めているものが違うだけかもしれないが、せっかく好意的な感想があまりにも同じ薄っぺらだとイラついてくるのもファン心理である。
正直言って、自分の最初の感想は「泣ける」とは程遠いものだったし、泣く快感に酔うにはあまりに”しこり”を感じた。(その”しこり”こそが自分を
リピーターに変貌させた原因だったのだけど。)
映画のヒットのおかげで様々な場所でこの映画を使ったCMを見る機会も増えた。90年当時、ちょうど普及し始めていたLDのCMに「泣ける」事を売りにしたイメージが出始めて辟易とした。
「それは、彼女が僕に見せた/はじめての涙だった。」と言うコピーや
加勢大周氏が男泣きするメインビジュアルの傍に『ニュー・シネマ・パラダイス』。
まだ当時は男泣きできる自分を肯定するのが新鮮だった時代なのかもしれないけれどさ。
よく『ニュー・シネマ・パラダイス』好きを揶揄するフレーズ
「映画が好きなのではなくて泣いている自分に酔っているんじゃないの?」という意見に”そういう人が多いのかも”と思わされてしまうのも確かなのだ。
もうゲップが耳から出そうな気分なのに、15年を経た今でも「泣ける映画」と言う褒め言葉は世間に渦巻いている。泣けると良い映画と言うのは間違っている。
当初、本国イタリアでこの映画は「甘ったるすぎる」と酷評された。当時のイタリアの批評家はセンチメンタリズムの奥にある価値を評価するまでには至らなかった。「泣ける」からダメと言う評価と、「泣ける」から良いと言う肯定派は実はなんら変わりない。それはセンチメンタリズムの好みの問題だと言い換えられる。
繰り返し言う。泣けるとエライんかい? 良い映画なのか? 少なくとも俺は
そう思わないね。
そんなに泣きたきゃ、玉ねぎむいてろ!
こんな罵詈雑言を心につぶやきながら、今日も「泣ける映画」と言う褒め言葉を自分はスルーしている。
■画像〜92年PI0NEER雑誌広告 「それは、彼女が見せたはじめての涙だった。」
フィルムやスプライサーといった小道具の作りこみはカッコイイ、作り手のこだわりを感じるビジュアル。
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